ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

ワーゲン生みの親ポルシェ博士はヒトラーを総督と呼ばなかった。

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20世紀最高の自動車設計者と称されるフェルディナント・ポルシェ博士、自動車の創成期であった1900年代のはじめに優れたエンジンを次々と開発しカーレースでつねにトップを飾るその技術の高さに皆が驚かされた。大学も出ていない一介の叩き上げの技術屋だった彼にウィーン工科大学は1917年に自動車工学の傑出した数々の功績をたたえて名誉博士号を授与、以来「ポルシェ博士」が彼の呼び名になったのだという。ポルシェの名が一躍有名になったのはドイツの国民車フォルクスワーゲンの設計だった。当時のドイツ総督ヒトラーの依頼であのカブトムシと愛された流線型のボディに空冷リアエンジンの国民車を設計した。ヒトラーに気に入られたポルシェはレーシングカーの設計も依頼されヨーロッパのレースを席巻した高性能レーサーも設計している。しかし第2次世界大戦が集結するとポルシェはヒトラーと密接な関係にあったとして戦争犯罪人の汚名を着せられ戦犯収容所での生活を余儀なくされた。ポルシェ自身は依頼を受けて自動車設計をしただけで当初からナチスの政治理念に反対の立場を取り、ワーゲン設計で何度もヒトラーと会った際にもヒトラーを「総督」とは決して呼ばず「ヒトラーさん」とさんづけで応対していたという。ポルシェは戦後の長い獄中生活で健康を害し、1950年あの伝説のスポーツカーのポルシェ356の生産開始を見届けた翌年に「生涯一技術者」としての矜持を保ったまま75歳の人生を閉じたのである。